他者性という性質に込められた意味。そして、どう生きるのか。

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他者性。自分とは異なる、他者ならではの性質やあり方を表す言葉だ。社会の中で人と関わりながら生きていると、どれほど親しい相手であっても心の底まで覗き込むことはできないと痛感する。

13年間のバスケットボール体験や家族、仲間、仕事で出会った人々との関わりを通じて、私は他者を完全に理解することの不可能性を学んできた。人は自分以外の誰かのすべてを知ることはできず、本当の自分という存在もまた、本人にしか分からない領域にあるのだ。

相手のことを知ろうとすればするほど、人間関係で抱くストレスも大きくなる可能性がある。どこまで進んでも、「本当のことは本人にしかわからない」という結論に至るのだから。

しかし、それでも私たちは理解しようと努力する。ストレスや葛藤を抱えながらも、目の前の相手が何を考えているのか、何を伝えたいのかを知ろうとする。

この社会で他者との関わりという逃れられない現実と向き合わなければならないのならば、私はその意味について人間に備わった脳という機能を駆使して思考したい。

存在を覆い隠す盲目の正体

他者性は確実に私たちの社会に存在しているが、その存在を正確に認知して生きている人は少ないのではないだろうか。当たり前のように隣にいる人の不可解さが見えなくなってしまう背景には、人間の脳に備わった無意識の働きが存在する。

何が私たちから他者性を見えづらくさせているのか、その正体を具体的に紐解いていきたい。

主人公としての物語と感情の揺らぎ

誰もが自分が主人公の物語の中で生きているという側面がある。他者に対しては、自分から見えている相手の人物像を勝手にあてはめ、「この人はこういう人物だ」「こう在ってほしい」という願望や期待を抱いて接しているのではないか。

ここでは、この願望や期待を、信じるという言葉を使って表現したい。

だから人は、自分が見ていた、信じていた姿とは異なる相手の新たな一面を目にしたとき、失望したり悲しんだりする。逆に嬉しくなることもあれば、強い怒りを覚えることもあるだろう。相手の予期せぬ言動によって、私たちの心には喜怒哀楽という感情が揺れ動くのだ。

私もそうだ。誰かの行動に喜びや嬉しさを感じ、誰かの言動に落胆し、悲しむ。人とのかかわりの中で痛いほど感じてきたことだ。信じて、裏切られての繰り返しの中で学ぶことができたものだから、人を信じることは悪いことではないと感じている。

つまり、自分が見えている相手の姿がその人のすべてだと思い込んで接してしまうのである。実際にはほんの一部しか見えていないかもしれないのに、それが相手のすべてだと錯覚してしまう。

これは無意識に近い感覚かもしれないが、私たちが人間関係で抱える紛れもない事実だと言える。

深い関係性がもたらす理解の錯覚

主人公である自分と相手がどういう関係性なのかによって、目の前の相手が見せているものがすべてであるという想いは強くなる。親や親友、恋人など、自分にとって繋がりが強い人間ほど「自分が一番の理解者だ」と感じてしまうのだ。

この社会には、一人として同じ人間は存在しない。自分以外の誰かは極論、他人に当てはまると私は思う。だが、どうしてだろう。親、友人、恋人、人と人との関係に名前を付けたがり、名前がつくと、一番の理解者であると錯覚する。

この関係性の深さこそが、他者性という不可侵な性質を私たちの脳から消し去ろうとするのだ。どれほど長い時間を共に過ごした相手であっても、自分の知らないその人の一面などいくらでも存在する。

肩書きや関係性の名前に甘え、相手を分かった気になってしまうことこそが、視界を遮る盲目の正体なのだ。

一番の理解者であると錯覚することと、一番の理解者であろうとすること。両者は明確に異なった捉え方である。私は後者の姿勢を忘れずに生きていきたいと強く思う。

他者性と向き合い生きるために

他者性の存在を認識した上で、私たちはどのように人と関わり、社会の中で生きていくべきなのだろうか。完全に分かり合えない絶望に立ち尽くすのではなく、その限界を受け入れた先にある人間関係の築き方を模索したい。

完全な理解を諦める前提の受容

相手のことを完全に理解することは絶対にできない、という前提を持って人と関わることが大切だ。自分に見えている人間性が相手のすべてではないことを、日々の関わりの中で決して忘れてはならない。

相手のすべてを知ろうと欲をかきすぎない姿勢が、互いの心を守る防波堤となる。どれほど努力して知ろうとしても、本人にしか分からない領域は確実に存在するのだから。

といっても、この前提を持って生きている人間はそういないように感じる。これは、大学での4年間、そして現在の職場での人との関わりの中で感じたことだ。

人は「その人が心配だから」とか「その人の力になりたいから」という理由で、相手に必要以上に干渉することがある。

「〇〇がこんなこと言ってたけど、大丈夫?」「あの日仕事なんで休んだの?」

教えて。教えて。教えて。

友達が聞かれている場面、自分が聞かれたとき、散々思ってきた。力になるよ、という言葉に隠された本当の望みは、その人のすべてを知りたいという欲望なのではないかと。

私しか知らない真実を持っておきたい。私がその人の一番の理解者でありたい。その人の特別でありたいのだ。その人が人生で関わる多くの人たちの内の一人では気が済まないのだ。

その欲が、人を追い込んでいく。部活で、職場で、その過程を見てきた。だからこそ、思うのだ。自分に見えている人間性が相手のすべてではないことを、日々の関わりの中で決して忘れてはならないと。

なにが真実なのかなんて、どうだっていい。その時自分から見えている相手の人物像こそが、自分が理解できる範囲内のすべてであると潔く納得する。私はこれこそが、本当の意味での信じるということではないかと考える。

不完全な理解を受け入れることが、相手の自由と尊厳を守る第一歩となるのだ。

すれ違いの果てに宿る思いやり

理解し合えないからこそ、人は相手の言葉の背景に想いを馳せ、想像力を働かせる。もしお互いの思考が透明に見えてしまったら、この世界から優しさや気遣いは消えてしまうだろう。

中学、高校、大学、そして現在。出会うことができたすべての人が持つそれぞれの不可解さに思考を巡らせ、痛みを感じたその先に、本当の意味で人を信じることができたからこそ、私という人間が構築されたのだと今になって思う。

分からないからこそ思考し、相手を想う過程の中に人間らしさが宿るのだ。言葉の奥にある感情を理解しようとする姿勢を持ち続けることが、他者と生きる上での誠実さである。他者という鏡を通じて自分を知り、未知の価値観に出会うたびに新しい自分が生まれていく。

違いを恐れず、互いの不可解さを尊重し合える関係の中にこそ、本物の温もりが存在するのだ。

違いを抱えて歩む人間関係の解

社会は矛盾に満ちており、他者との摩擦で生じるストレスや擦れ違いに心が折れそうになる夜もある。それでも、人間関係に安易な名前をつける必要はなく、ひとつの仮面だけで自分や相手を決めつける必要もない。

他者を完全に理解することはできないという事実を肯定的に受け入れたとき、世界の見え方は大きく変わる。目に見えない誰かの頑張りや苦悩に想像力を巡らせ、静かに感謝を捧げられる人間でありたい。

分からないという前提に立ち、言葉の背景にある物語に耳を澄ませながら、私はこれからも人と関わり続けていく。

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