「かわせみの止まり木」は、日々の生活の中で見過ごしがちな感情や、自分自身の価値観をありのままに書き留め、伝える場所である。私たちが生きる社会は常に慌ただしく、時に理不尽な矛盾に満ちている。
そうした日々のなかで感じた喜びや怒り、哀しみや楽しさを、綺麗事を交えずにそのままの温度感で言葉にしていきたい。ここでは、私が13年間関わってきたバスケットボールや、家族、職場での出会いから育まれた思考や価値観を綴る。
答えの出ない問いや、社会への違和感をそっと持ち寄り、心安らかに羽を休められるような止まり木を目指している。
日々の葛藤と感情をそのままに綴る場所
私たちは日々、さまざまな出来事に直面し、心が大きく揺れ動きながら生きている。しかし、その感情の波を押し殺したり、世間の「普通」という枠に無理やり当てはめたりして過ごすことも少なくない。
例えば、働き方。俗にいう「普通」の働き方とは、いずれかの企業に正社員として雇われ、働くことではないだろうか。最も、私はその働き方が「普通」であると感じたことは一度もないが。
実際に、現在私は正社員として働いていない。俗にいう、フリーターなのである。出会った人に自分の働き方を伝えると、変わっているなと感じているであろうことがひしひしと伝わってくる瞬間は少なくない。
自分自身が挑戦したいことに取り組み、喜怒哀楽をありのままに感じることこそが人間として生きている証なのだと、私は強く信じている。だからこそ、この場所では綺麗事を並べるのではなく、胸の内に渦巻く葛藤や疑問を隠さずに表現する。
感情が動いた瞬間を大切に取り上げ、自分なりの解釈を加えていくことで、人生の輪郭を少しずつ確かめていきたい。誰もが抱える行き場のない想いをそのまま受け止められるような、そんな優しい止まり木でありたいと考えている。
肩書きを脱ぎ捨てて素直に向き合う空間
社会に出ると、私たちはいつの間にか「肩書き」という重たい荷物を背負わされてしまう。肩書きによって測られる価値や、求められる役割を演じ続けることに、どこか息苦しさを覚える人は多いだろう。
私は高校3年生のころ、バスケットボール部で副主将を務めた。練習後のミーティングでは、チーム全体に今日の練習の反省を伝える一幕があった。
副主将だから、言っていたこと。自分が伝えたいから、伝えたこと。両方あったと感じる。伝えるという行為としては同じことでも、両者は全く異なる性質を持っている。前者は、副主将という役割を演じているのだ。
社会に出ても、同じことが言えないだろうか。リーダーであるから、チームをまとめるために伝えるのか。本当に自分自身がその人を、チームを変えたいという気持ちがあるから言葉にするのか。情景としては同じだが、その背景には違いがあるのだ。
そこで考えたい。肩書きを追い求めた先に見える景色は、本当の意味で豊かなものなのだろうか。私は、社会的地位や評価にとらわれず、ひとりの人間として物事を見つめ直したいと思っている。
人はみんな、状況に応じてさまざまな仮面をつけたり外したりしながら生きている。どの仮面の下にある姿も、紛れもない本当の自分であることに変わりはない。この場所では、そうした肩書きをすべて脱ぎ捨て、素直な自分自身の言葉でみなさんと対話していきたい。
私が大切にしている価値観と原点
私の価値観の原点にあるのは、これまでの人生で出会ってきたかけがえのない人たちとの関わりである。バスケットボールを通じて培った絆や、家族が教えてくれた温もり、働く現場で共にした仲間たちの存在が今の私を形作っている。
人と人との関係性にわざわざ名前をつける必要などどこにもない。「普通」なんて概念はこの社会には存在せず、誰もがそれぞれの尺度で生きている。自分の経験や感じたことが、もしどこかで誰かの心を救うきっかけになるのならば、これほど嬉しいことはない。
理不尽な現実から目を背けず、自分なりの視点で物事を解釈しながら、しっかりと地に足をつけて歩んでいきたい。
バスケットボールと人との出会いが教えてくれたこと
13年間バスケットボールに関わり続ける中で、私は数え切れないほどの素晴らしい人たちと出会ってきた。勝負の世界の厳しさだけでなく、仲間と喜びを分かち合う瞬間や、挫折を乗り越える過程で多くのことを学んだ。
チームメイトや指導者との関わりは、私の人生観を大きく変えてくれた。人と人が深く交わるとき、そこには型にハマった関係性以上の物語が生まれる。誰かと出会い、新しい価値観に触れるたびに、自分の中の知らなかった一面が刺激されていく。
実際に私は大学生のころ、当時の監督との出会いをきっかけに競技者からトレーナーへ転向し、支える人間の視点や価値観に触れることができた。
そうした人との巡り合わせこそが、私を成長させてくれる何よりの原動力となっているのだ。
社会の理不尽や矛盾に向き合い続ける理由
現代社会を見渡すと、不条理なルールや、目に見えない誰かの頑張りが踏みにじられる場面があまりにも多い。理不尽な状況に直面したとき、それを仕方のないこととして諦めてしまうのは簡単である。
しかし、社会の矛盾だらけの現実から目を背けず、ありのままの発信を続けることにこそ意味があると信じている。人間の意思や思考は代えが効くものではなく、一人ひとりが持つ独自の感覚はかけがえのない財産なのだ。
周囲の人間と上手くやるために本音を殺したあの瞬間、本音を殺して上手くやれる人間が人付き合いが上手と評価される現実、本音に嘘をつかずに声を上げた人間がプライドが高いだの、気が強いだのと嫌悪される社会、生きづらい世の中なのである。
「人と上手く関わるのって疲れるよね。たまには君の本音を聞かせてね。」
「言いづらかっただろうに、本音を伝えてくれてありがとう。君の意思を尊重する。」
直接的には目に見えない誰かの小さな頑張りに気づき、心から感謝ができる人間でありたい。 どう在るべきかという本質を問い続けながら、理不尽な社会に対して誠実に向き合い声を上げていきたい。
言葉と本を通じて見つける新しい世界
言葉には、人の心を大きく動かす計り知れない力が宿っている。だからこそ、言葉を発するときには、その背景にある感情や意図を大切に扱いたいと考えている。言葉の向こう側にいる人が何を感じ、何を考えているのかを理解しようとする姿勢を持ち続けたい。
また、本を読むことは私にとって、自分自身の知らない世界へ旅立つための大切な手段である。本とは誰かの脳内を覗くような感覚であり、自分一人では絶対にたどり着けない思考や価値観に触れられる。
本と向き合っているときの私は、この物語はどんな意味を持っているのだろう。何を伝えたいのかな。登場人物Aはなぜこの言葉を発したのだろう。登場人物Bの視点から物語をみると全く違う物語になるな。という感覚が面白くてしょうがない。
多様な視点から物事を見ることで、ひとつの事象でも全く違う景色が広がっていることに気づかされるのである。
言葉の背景にある感情を丁寧にすくい取る
私たちは日常の中で何気なく多くの言葉を交わしているが、その表面的な部分だけで相手を判断してしまってはいないか。発せられた言葉の背景には、その人が歩んできた人生や、抑えきれない切実な感情が必ず隠されている。
言葉の表面だけをすくうのではなく、その奥にある想いや痛みを想像しようとする姿勢を持ちたい。言葉には、人の心を深く傷つけることもあれば、絶望の淵にいる人を救い出す力もある。
例えば、大丈夫という言葉。人は、本当は大丈夫でないときにこそ、この言葉を使う気がする。心配をかけたくない、一人でなんとかしたい、そういった心情がこの言葉の背景には存在するのだと思う。
「頑張れ」という言葉は使い方によっては凶器になりえる。あなたならできる、頑張れ。という言葉は相手を追いつめることもある。方向性や熱量は違えど、人はみな既に頑張っているという前提を私は大切にしている。
そして、頑張れだと、どこか相手を放り出しているような感覚になる。私は、「頑張ろう」と伝えたい。「頑張ろう」には、一緒にという意味や支えるからという意味が含まれていると感じるからだ。
言葉には、人を救う力もあれば、傷つける力もある。
だからこそ、自分自身の紡ぐ言葉に対しても責任を持ち、誰かの心に温もりを灯せるような表現を心がけたい。お互いの言葉の背景を尊重し合える関係性が、これからの社会には必要不可欠であると感じている。
本を読むことで他者の脳内を覗き込むという刺激
読書は、私にとって他者の思考の深層に触れられるこの上なく贅沢で刺激的な時間である。ページをめくるたび、著者が人生をかけて見出した視点や、自分とは全く異なる価値観に出会うことができる。
それはまるで、他人の脳内をそっと覗き込み、新しい世界を一緒に旅しているような感覚に近い。自分自身の狭い視野にとどまらず、多様な生き方や考え方に触れることで、感性はより豊かに磨かれていく。
辻村深月さんの「傲慢と善良」からは、私たちが人生において何かを「選ぶ」という局面において、1人の人格の中に「傲慢さ」と「善良さ」が共存してしまうという事実について考えさせられた。
誰かが正しいと示してくれたことに従って生きることが善良だと信じていた人間が、自分の意思で選択を繰り返して生きてきた人の個性を、個性ではなくズレと認識してしまう傲慢さ。
他人の正解に従って生きてきた割には、自分に見合う人は自分の意思で決めたいという傲慢さがここにはあるのだ。善良な人間であるが故の傲慢さを、この作品からは詳細な心理描写とともに痛いほど感じることができた。
1つの物事であっても、異なる視点から見つめ直すことで、今まで気づかなかった新しい景色が見えてくる。 本という存在が教えてくれる無限の広がりを大切にしながら、これからも多くの知見を吸収していきたい。
誰かと分かり合えなくても手をつなぐ
人はどれほど時間をかけて向き合っても、他者を完全に理解することはできない生き物である。しかし、それでいいのだと私は心から思っている。
もし仮に、すべての人間関係において相手の心を完全に理解できてしまったとしたら、そこには思いやりや優しさは残るのだろうか。理解し合えないからこそ、私たちは相手を知ろうとし、大切に想い合うことができる。
新しい価値観に触れるたびに、知らなかった自分が生まれ、世界の見え方が優しくアップデートされていく。完璧ではない私たちが、それでも手をつなぎながら生きていくための歩み方を、これからもこの場所から発信し続けたい。
人を完全に理解できないからこそ生まれる思いやり
私たちは時に、大切な人に自分のすべてを分かってほしいと願い、そして分かってもらえないことに絶望する。しかし、他人の心を隅々まで完全に理解することなど、そもそも不可能なことなのではないだろうか。
すべてを分かり合えないという切なさを抱えながらも、それでも相手を理解しようと寄り添う過程にこそ、本当の思いやりが宿るのだ。分かり合えないからこそ、相手への想像力が働き、尊い敬意が生まれるのだと私は信じている。
先日、私の人間関係の中でも、お互いに分かり合えない価値観を理解しようとするのではなく、その価値観をお互いに尊重し合える関係であることが重要だと話し合った相手がいる。
完璧な理解を求めるのではなく、違いを認め合った上で優しさを差し伸べられる人間でありたい。不完全な私たちだからこそ持てる、温かい絆のかたちをこれからも大切にしていきたい。
新しい価値観に出会うたびに生まれ変わる自分
日々の暮らしの中で誰かと出会い、自分とは異なる新しい価値観に触れる瞬間は、いつも新鮮な驚きに満ちている。その度に、頑なだった自分の心がほぐれ、今までに知らなかった新しい自分が少しずつ生まれているのだと感じる。
これまでの常識や固定観念にとらわれず、柔軟な感性を持って変化を受け入れていきたい。 人はいつからでも、何度でも、新しい自分に生まれ変わることができる。
この「かわせみの止まり木」を通じて、訪れてくれたあなたがあなた自身の感性を取り戻し、明日を生きる力を見出してくれることを願っている。
矛盾だらけの世界であっても、自分の足で立ち、自分の言葉で歩み続けるための止まり木として、この場所を大切に育てていきたい。

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